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学校保健に問いかける
天理大学 橘 重美
我が国に学校医の制度が制定され(1898年)、学校衛生課が文部省の中におかれて(1899年)からもう70年である。また日本独自な教師としての養護訓導→養護教諭が生まれて30年になる。学校給食法(1954年)、次いで学校保健法(1958年)など、しだいに、学校保健の管理の面がまとめられ、整備されてきている。
しかし学校保健の底流には、いまだに学校保健不振感といったものが強く存在している。学校保健に熱心な人々ほど、その進歩と発展に、心のかたすみで、たとえようのないもどかしさを覚えていることも事実である。たしかに、学校病とさえ呼ばれている近視やう歯は減るどころか年々急激な増加をつづけている。「学校保健はいったいなにをしているか?」の声がかけられても当然である。こころみに、ここ数年「学校保健研究」などに寄せられた学校保健関係者の声の中からいくつかをとりあげてみると次の様である。
○現在の学校保健はすべてが寄せ集めであって全体を貫くなにものも存在しない。
○生理衛生の知識のみの普及であって、生徒自身が自分の健康は自分での意欲をもたせるなにものもない。
○学校保健に対してもっとも中心とならなければならない現場の教職員がいたって認識不足で、熱意にも欠ける。
○学校保健が教科であるのにその教師養成が全く等閑視されている。教員養成学部での学校保健必修が不充分である。
○地域社会の学校保健に対する理解不足。
以上の声はなるほど学校保健の急所をするどく突きさしている。健康のことがらは人間の科学のすべてに密着して、もっとも重要なことがらである。しかしいちばん重要なことであるが故に人間の意識のなかには至って稀薄にしか存在しないのかもしれない。最近の中教審の答申の中においても、健康という言葉はあの長い全文の中にたった二回のみしか出てこない。しかし教育基本法では健康がなによりも人間にとって大切であることをうたいあげている。
公害が人間の健康を蝕むものとして、そのおそろしさが叫ばれ、その対策が求められて長いのに、いまだにそれらしきものはみつからない。この頃では住民自身がどうかすべきだというような声さえあがっているが、これはとんでもないことである。住民がいくらさわいでもどうにもならない。政治家がこのことに熱心にならなければどうしようもない。まして「人間尊重」を表看板にする為政者がこれに取り組まないかぎり、このことは解決しない。月面上に人の立つ時代に、どうして年々決まってやってくる台風が防げないのであろう。我々の健康を痛めつける汚れた空気を清浄にするこんな研究がなぜされないままでいるのか不思議なことに思われてならない。
こんな状態の中にいても、我々はやはり学校にいる児童生徒の将来のために学校保健のわずかな進歩にも力を尽さなければならない。教育未来学では現在以上に健康安全の教育が重要視されることは必然である。
我々は学校保健に問いかけ、そして学校保健そのものの中からのみ答をひき出すよりほかはない。せっかちにならないで、辛抱づよく、じっとこらえて取り組むべきである。
健康とは健康生活によって結果された人間生活の状態である。健康生活は健康そのものではなく、生活そのものなのである。健康教育は健康そのものを教えるのではなく、健康な生活をしようとする意欲を持たせるものでなければならない。このことを充分に理解して現場の先生が教育としての学校保健の本質をわきまえ、学校保健にいっそう愛着を持って懸命に努力されることを期待する。
――昭和45年8月25日 近畿学校保健学会通信 No.18 より――
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